「月は見ている時にだけ存在するのか?」
これらは、量子力学の曖昧さを批判したアインシュタインの有名な言葉です。知識欲を刺激する実に哲学的な言葉です。
これだけで量子力学に興味を持たせるには十分ですが、僕が量子力学に興味を持ったのは、山田正紀の小説「エイダ」を読んでからです。実は、この「エイダ」、重松清の「エイジ」と間違えて買いました(^-^;;。が、思わぬ出会いもあるもので、この間違いが世界の奇妙さの一端を知るきっかけになったわけで、怪我の功名とは正にこのことかと。
「エイダ」は量子論の多世界解釈を題材に、ミクロな世界でのみ起きる干渉が、マクロな世界でも起きるとしたら?というアイデアに根ざしたSF小説です。最後はなんだかトッチラカッタ印象も拭えませんが、複数の物語がお互いに絡み合いながら進行していくストーリーは、なかなか読み応えがありました。
そんな間違いに端を発した量子力学への興味ですが、僕が量子力学において最も衝撃的だと思うのは、共存(量子の重ね合わせ。英語だとsuperposition。)という概念です。
量子力学では、電子や原子の位置は人間が観測するまでは1箇所に定まらず、例えば「A地点にいる状態」と「B地点にいる状態」が共存しているという考えるそうです。これは「可能性が2つある」というわけではなく、また「A地点かB地点にいるのだが、どちらにいるのか分からない」わけでもありません。A地点いる状態とB地点にいる状態が共存していると考えるのです。
よくよく考えれば(いや、よく考えなくても)、なんだか奇妙な話で素直には信じられません。しかし、この共存という概念そのものは議論の余地無く確立されたもので、シュレーディンガーの波動関数(物質の持つ波の形表現し、その波が時間とともにどのように伝わっていくのかを計算できる量子力学の基本となる方程式)を忠実に理解すれば、当然のごとく導き出される結論だそうです。
共存を裏付ける実例としては、ダブルスリットの実験が有名です。また、この実験は電子が波であることも実証されます。というか、論理の流れとしては、
干渉は波特有の現象(粒子では起こりえない) → したがって電子は波である → 電子1つでも干渉する → では何と何が干渉したのか? → 電子は自分自身と干渉した → スリットAとスリットBを通過した状態が共存している、となるのですが。
そして、これも驚きなのですが、電子は観測することによって、共存した複数の状態のうち、どれか1つの状態で発見され、また、どの地点に発見されるかは偶然に支配され、確率的にしか予測できないと言います。
これは確立解釈と呼ばれますが、この理論にはアインシュタインを始めとして、多くの物理学者が抵抗したといいます。なぜなら「自然現象をあらわす物理学は決定論でなければならない」というのがニュートン以来の物理学の大前提であり、アインシュタインも、また前述の波動関数を導いたシュレーディンガーさえも、これを頑なに信じていたからです。
「物理学を決定論と考える」とは、簡単に言うと、過去のある時点での条件がすべてわかれば、その未来はただ1つに決定できると考えることです。たとえば、手に持ったボールから手を離したとき、ボールがどんな運動をするのかは、ボールと地面の距離や地球の重力の強さなどを知ることで正確に予測できます。『「量子論」を楽しむ本』P141 佐藤勝彦著
要はボールでもサイコロでも惑星でも、正確な情報さえあれば古典力学を用いて100%の確立で動きを予測することが可能だが、電子の場合には、どんな理論を用いても100%の確立で予測することは不可能だと言っているわけです。
例えばある箱に電子を1つだけ入れた後、箱の真中を板で仕切るとします。共存の概念によれば、電子は右側にある状態と左側にある状態が共存していることになります。箱を開けて観測するまで、どちらに発見されるかは分かりません。しつこいようですが、左右どちらかにいるが、観測前には確率的にしか予測できないのではなく、左右それぞれにある状態が共存していて、観測したときにどちらに発見されるかは確率的にしか分からない、つまり、観測する前には位置はまだ決まっていないというのです。
また、観測する前には、複数の場所に共存していたというのに、観測したとたんにただ1箇所に発見され、またその後は複数の状態が共存すると云います。この「ただ1箇所に発見されること」を「波の収縮」と呼びますが、「波の収縮」と「確立解釈」が量子力学の主流であるコペンハーゲン解釈の2本柱となっています。
しかし、この「波の収縮」という考え方はかなり人為的な概念で、前述の波動関数から波の収縮を導き出すことはできないと言います。
これは非常に実用的な考えであり、別の言い方をすれば実用性だけを重視してそれ以外のことには目をつぶる、割り切った考え方だと言えます。つまり複素数である波動関数そのものが、物理的に何を表しているのかを詮索することをやめてしまったのです。その代わりに、波動関数の絶対値の二乗(この値は必ず正の実数になります)にだけ「電子がその場所で発見される確立」という意味を見いだして、これで十分だとしたのです。なぜなら、私たちが電子を観測するときには必ず「粒である電子」つまりどこか一点にある電子を発見するからです。波のように広がった電子を見ることはありません。ならば、粒である電子がどこに見つかるのか、その電子がどんなエネルギーを持っていて、どんな現象を起こすのか、それさえわかればあらゆる実験結果を説明できるので、十分実用的な理論になります。理論はある意味で「実験結果」をきちんと言い当てることさえできれば、それで良いのであり、逆に言えば「実験結果」には現れない(つまり私たちが目にすることのない)電子の波が何を表すのかなどは考えなくていいとも言えるわけです。『「量子論」を楽しむ本』P128 佐藤勝彦著
コペンハーゲン解釈では、ミクロの量子力学の世界を人間は外から見るという立場を取ります。つまり、観測されるミクロの世界と観測する側の世界とは分離されていて、私たち観測者は古典力学的に扱うのです。(中略)電子は観測されるまではどこで見つかるかわからず、可能性はいろいろあります。そしてコペンハーゲン解釈では、観測された時点で、観測された特定の状態に限定し、それを波の収縮として天下り的に受け入れます。しかし多くの可能性が一つに限定されてしまうというプロセスは、もちろん量子力学の基本原理であるシュレーディンガー方程式からは絶対に出てきません。『シュレーディンガーの猫がいっぱい』P81 和田純夫著
つまり、波動関数自身が何らかの実在を表しているのではなく、何が観測されたのかその量を記録し、さまざまな観測量の間の関係がわかればいいという立場です。だからこそ、波の収縮という人為的な概念を導入しても、違和感がなかったのでしょう。つまり、人間が何かを観測したという現実がまず前提にあり、それを結びつける一つのブラックボックスが量子力学だという、立場に立っているわけです。『シュレーディンガーの猫がいっぱい』P128 和田純夫著
アインシュタインらは、このような論理展開に噛み付いたわけで、自らの伝記の著者との議論で「月は君が見ているときにしか存在しないと本当に信じているのかね?」と話し、確率的にしか分からないのは人間の無知ゆえで、まだ発見されていない理論がきっとあるはずだと考えていたようです。
これら量子力学の基礎を確立した1人にボーアという物理学者がいますが、彼は量子論が明らかにした物理観・自然観の特徴を「相補性」という概念を使って説明したそうです。
ボーアは相補性を表すシンボルとして古代中国の「陰陽思想」を象徴する大極図を好んで用いました。陰と陽という対立する「気」が絡み合い、相互作用を行うことで、すべての自然現象や人間活動が決まるとする陰陽思想は、まさに量子論の描く世界像と同じといえます。『「量子論」を楽しむ本』P187 佐藤勝彦著
つまり、世界は人間による認識から独立した何らかの状態で存在しているはずだという客観的事実を否定した量子論は、近代科学の根底をなす二元論ではなく、観測者と観測対象を1つとして考える一元論に世界の本質を見出したというわけです。
#ちなみに大極図ってのはこれです。Town&Countryのロゴでも有名ですね。
・・・とは書いてみたものの、そんな理屈の上に世界も僕自身も成り立っているというのは、にわかには信じられないなぁというのが、やっぱり正直なところなわけで。私にとっても量子力学は本質的に信じがたいものだ。それは何も私だけではない。人間の脳は進化の過程で、奇妙な量子効果が現れないような膨大な原子の集合体に適応してきた。どんな物体もここかそこかのどちらか一方に存在し、時計回りか半時計回りかのどちらか一方向に自転している。原子の世界では二つが共存しうるということを理解するには、人間の視野の狭さを自覚する必要がある。宇宙はわれわれがどんな法則を信じているかなどを気にしてはいないのだ。原子や電子や陽子も必ず二つの状態のどちらか一方にあるはずだという人間の直感は、極小の世界を知らない生き物の持つ偏見にすぎない。われわれはマクロの世界の常識によって目をふさがれているのだ。『量子コンピュータとは何か』P53 ジョージ・ジョンソン著いろいろゴニャゴニャと書いたので、お口直しに「シュレーディンガーの猫」ならぬ「テレポーテーションな猫」でもどうぞ。
(動画再生にはQuickTimeが必要です)
Undeniable Friday: The Teleporting Cat Trick
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鶴丸屋β
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